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書評

アイン・ランド著『水源』ビジネス社2004.7.刊行

『東洋経済』2004.9.18.112

橋本努

 

 

アイン・ランドと言えば、「アメリカの司馬遼太郎」とでもいうべき国民的な小説家だ。美しく逞しく、しかも破天荒な人生を送ったヒロイン的存在である。四〇年代から六〇年代の若者に熱狂的に受け入れられ、現在でもアメリカの書店には、彼女の本がずらっと並んでいる。

そんな彼女の待ちに待った本邦初訳書が現れた。一九二〇-三〇年代のニューヨークを舞台に、高邁な精神をもつ若き建築家の半生を描いた長編小説である。大恐慌をはさみ左傾化する社会にあって、「個人の崇高な生の肯定」というニーチェ的理想を掲げて生きる主人公のハワード・ローク。彼を中心に、時代の特徴を深く刻んだ人物たちが波乱の物語を繰り広げる。

例えば、組織内の出世術には長けているが内省力に欠け、指導性を発揮できずに転落していくキーティング。国家統制と祭司的権力を肯定し、大衆の意識を同胞愛と無私の思想によって飼い慣らそうとする左翼批評家のトゥーイー。貧困から這い上がり、愚劣な大衆紙を発行しつつも、芸術に対する審美眼を発揮するメディア王のワイナンド。いずれも著者の鋭い人間観察力によって生命を吹き込まれた道化師たちだ。

さらに物語を引き立てるのは、登場する三人の男の妻となったフランコン。反権力的な自尊心と破滅的な激情の狭間で揺れ動く彼女の精神は、主人公と並んで、「アメリカの逞しき個人主義」を象徴していよう。二〇世紀初頭のアメリカは、悪しき集団主義がはびこる大衆社会であった。そんな社会にあって卑屈さを避けるためには、「自己の内から湧きあがる欲望」を貫かねばならないと著者は訴える。本書はまさに、瀕死の自由精神を救い出した記念碑的作品だ。プロットも巧みで、読者をぐいぐいと引き込む力がある。

 橋本努(北海道大助教授)